2016.5
創作物というものは、たいていは作家の抱いた「問い」に挑んだ、ひとまずの「答え」です。
理論や理屈で解き明かせないだけでなく、作家自身も既存の資料では代弁できない。単純な伝達媒体では表現しきれないその有象無象なもやもやの正体を、稚拙な感性と言葉をどうにか駆使し、時間と思索を費やし、ついに解釈したその「かすかなイメージ」を、第三者に伝達するため何らかの手法で「作品」へと表出している。
作家が作家をやめないのは、ただ当人にとっての最適な思想・感情伝達媒体こそ「作品」だから、なのではないでしょうか。ありがとうの気持ちを「ありがとう」の五文字では表現しきれないから、作品をつくるのです。たぶん。

要約すると、創作というものは、
『作家の抱いたイメージ(問い)』を『第三者に伝わる形』へと『翻訳』する行為とも言える。
それはさらに、我々受け手自身にも課せられた題で、
『作家の抱いたイメージの表出物(解答)』から『受け手自身の体験・知識(人生)』というフィルターを通し『翻訳』された情報と体験を得る。

作品ひとつをとって見ても、『翻訳』という工程が最低でも二度行われる。
もし作家の表出物に「テキスト」が含まれていた場合、しかもそれが異国語なら、私たちは翻訳家たちが、読める言語に『翻訳』してくれたおかげで、『作家の抱いたイメージの表出物(解答)』と出会うことができる。
さあて、これほど何度も『翻訳』のフィルターに漉されてしまっては、作家本人の中で産声を上げた、純粋な頃のイメージは、どれだけ摩耗され、変容した形で私たちに伝わっているのでしょうか。そもそも正しく伝わっているのでしょうか。作品って、何なのでしょうか。
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……なんて気持ちが芽生え、英書「Title:spirits of creater(だったかな)」を「どうせ伝わらない」本来の形に戻して展示しました。
すると会場に、実際に翻訳の仕事をしていらっしゃる外国人の方が偶然いらしたそうで、「まったくその通りだ。自分もいつもこの心情と葛藤している」と、たくさんのコメントを残してくださいました。
嬉しい。願ってもいない、この作品の姿を一番純粋に読み取っていただける方に見ていただけたことは想定外の喜びでした。彼の人生が、この作品をつくるに至った私のイメージを大量に汲み取って、彼自身の大きな体験となってくださいました。
…しかし、受け取っていただいたようなイメージはたぶん、私の中にはない。彼の感動は、私よりももっと濃密で、より意義のあるものです。追い越されました。
ま、それもまた一興、ってやつですね。
(ちなみに、翻訳家の彼からのコメントを聞いたのは、当時刻その場にいたスタッフさん。私は後でスタッフさんの口からそのコメントを頂きました。ここにもまた)
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